関谷都さん(OL)
いつ、どのようにわたしはイエスを自分の救い主として受け入れたのか?
そして次の日、朝の先生のメッセージの後、ピアノ奏者のPTさんという宣教師の方をに紹介して頂きお話をさせて頂きました。でも、この方のお話はもっと意味がわからず、全然私の質問には的が外れているものばかりを返して下さいました。聖書の色々な箇所の御言葉を一緒にひきましたが、全然意味不明でした。やはり、あなたは救われていますみたいな事を言われたように思います。でも私は「わかりました。では、100歩譲って私が救われているという事を認めるとしても、それとは別に神様からの確信はほしい、それはそれで必ず与えられたい」んだと言いました。ただの駄々っ子だと言われる始末でした。駄々っ子だろうがわがまま娘だろうが、納得いかないものは納得いきません。しかし、そうはいったものの、やっぱりこんなものなのかなぁと、その点についてはかなり弱気になり、衰弱してしまっていました。確信なんてやっぱり与えられないのかなぁって・・・。
しかし、その時はついにやってきたのです。まさかまさか、「本当に行く意味があるんだろうか?」とさえ思って半分なげやりになっていたこのヘルモン山荘でのキャンプで、またT氏のメッセージを通してそれを与えられるなんて、本当に夢にも思っていませんでした。
2日目の夜のメッセージのタイトルは「キリストの十字架」とうものでした。T氏のお話はいつもの様にとてもためになりまた面白く笑えるものありで、時にはお腹を抱えながら、たいへん楽しく拝聴しておりました。でも、その日は途中から違っていました。私はいつの間にかT氏のお話に、いいえ、「主」からのメッセージに私は釘付けになり、魂が違う次元の世界に行き、いつのまにかそれをもぎ取られていました。
メッセージはこのようなものでした。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
私達が人のために多大な何かをしてあげる時、それが自発的に心からそうしたいと思って捧げられた捧げ物じゃなかったり、自分の意に反して強制的に捧げられた犠牲の場合、人に自慢したくなるような誇らしい気持ちになったり、また嫌だったのにした、というような苦々しい気持ちが残ることがあるかもしれません。でもそれが自分の愛する者を助けるためだったらどうでしょうか?自分の愛してやまない者を救うためだったらどうでしょうか?その様な気持ちになるでしょうか?いいえならないと思います。その人が助かって良かったぁ、救われて良かったぁ、助かって嬉しいー、と心から感じることでしょう。それは何故でしょうか?それは愛する者のためにする行為は強いられた犠牲ではなく特権だからです。自分が心から望んでそうしたい、と思ってする事だからです。イエス様は十字架にかかって下さった時、嫌だけど仕方なくついている、という気持ちだったでしょうか?また、私達のために不本意だけどついてあげている、というような思いがあったでしょうか?いいえ、イエス様は私達のためにそうしたい、と、私の愛してやまない者を永久に取り戻すために十字架に踏みとどまっているんだ、と心から望んで十字架について下さったんです。そして、このキリストの愛ゆえに、完全な犠牲のゆえに、私達がどんな罪人だったとしても救われるのです。そして、「テテレスタイ」完了した、完全に支払いきった、と言って息を引き取られたのです。神が完了したと言ったら本当に完了しているのです。神ご自身の赦しは完全に忘れている、キリストの血潮によって完全に罪を消し去って下さった、そして私達の罪は全て支払いを完了した、だけではなくて、実は何が完了しているかというと、クリスチャンになった人が死ぬまでの間、この地上での信仰生活に必要な全ての備えも完了している、という意味です。
多くの人はクリスチャンになる前に信じた後でどうなるのかなこうなるのかなと色々取り越し苦労でクリスチャンになった後の事を心配して決心する事が出来ないのですが、神様は信じてから死ぬまでの間に必要な全ての信仰生活の備えも備え終わったよ、と言って下さっているんです。だから、神が準備して下さっているものを受け取ったらいいんです。ある映画で、昔々自分の犠牲となって亡くなった友の墓の前で主人公が、私はこの犠牲に見合う様な生き方をしてきただろうか、この犠牲にふさわしいような人生を私は歩んでこられたのだろうか、と泣き崩れるシーンで、私はイエス様の事を思い出しました。私としてはキリストの十字架の下でつっぷしたい。私はあなたのこの犠牲に見合う様なクリスチャンの生涯を生きられているんでしょうか?しかし私が生きていくのに必要な全ては完了した、備えられているという御言葉にふれる時に元気が出てきます。
このイエスキリストの犠牲に見合う最高の応答の仕方が1つあります。それは、「感謝して受け取る」という事です。神様、こんな罪人の私を愛してくださって身代わりに十字架にまでかかり死に墓に葬られ3日目によみがえり、今この祈りを今聴いて下さっている方よ、どうぞこの私を憐れんであなたの前に素直に「いただきます」って言えますように。いいえ、あなたを信じます。どうぞ憐れんで下さい。救って下さって感謝します。って、もし私達がそれを素直に神の前に言い表すならば、神は喜んで待ってたぞーって迎え入れて下さいます。
この世というのは悪魔がいて私達が信仰を持たないようにするために色々な働きがありますが、よくもそんな世界の中でイエスキリストに「はい」って言えましたね。私が守っていたんだよ、よく応えたものだ、私はあなたが帰ってくるのを待っていたーっと。
罪人、これは神様に愛される人です。イエスキリストをある意味で喜ばす事が出来るのは罪人だけです。神から離れている人だけが神に立ち帰るという喜びを神ご自身の前にお返しする事が出来るのです。
自分の方法によって信じるのではなく、救われようとするのではなく、神が啓示したこのイエスキリストを通して神の身元に立ち帰るという方法をぜひ受け取って下さい。「アーメン、その通りです」ってもしその様に応えるならば主は救って下さるんです。
皆さん、弱い信仰でいいです。私の信仰は弱くても、強い神に対する弱い信仰は、でたらめなものに対する強い信仰よりいいんです。たとえ私の信仰が弱くても、私の信じている方が全知全能の救い主だったらいいんです。どうぞ自分の信頼、自分の信仰により頼むのではなくて、イエスキリストにより頼んでこの方のもとに帰ってください。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
(9ページへ続く)
1ページ 2ページ 3ページ 4ページ 5ページ 6ページ 7ページ
8ページ 9ページ 10ページ 11ページ 12ページ 13ページ 14ページ
経堂キリスト集会 〒156-0052 東京都世田谷区経堂5-29-12 電話:03-3427-5447
- 初めての方
- 経堂キリスト集会とは
- アクセスマップ
- フォトギャラリー
- あかしコーナー
- 救いのあかし
- English Info
- PDF(406KB)