関谷都さん(OL)
いつ、どのようにわたしはイエスを自分の救い主として受け入れたのか?
私は何という愚かな者だったのでしょう。あなたの愛に気づかずに、確信が持てない
確信が持てないと、私がこんなに苦しいのにどうしてそれをくださらないのですか?どうしてこんな苦しんでいる私を放っておかれるのですか?もうこんな自分がどこにいるのか分からない状態は嫌です、早くそれを与えて下さい、と自分が苦しいことばかりを訴え続けてきました。でも、私がそれに苦しんでいる間、神様あなたも私と一緒に苦しんで下さっていたんですね。その事が本当によく分かりました。
私一度、自分の部屋で神様と2人きりで信仰告白をしましたが、あれはなんと失礼な信仰告白だったのでしょう、なんと傲慢な思いでした信仰告白だったのでしょう。本当に心からあなたの与えてくださった物を、「ありがとうございます、受け取ります」という気持ちではなく、私は神様を信じてる、いつもお祈りもしている、そして主とも向き合っている、だからこんな事くらい全然言えるし、別にそういう気持ちでいるわ、だからこの内容も言う事に抵抗はないし、それにこれを言えたら何か神様が反応してくれて私に確信を与えて下さるんだったら、それがほしいしやってみる。というような思いの中で、本当に主にへりくだってしたものではなかったーっと思った時、ああ、神様、ごめんなさい。そんな思いがある中でした信仰告白を神様あなたはどのように思われたでしょうか?私はなんと傲慢で失礼な者だったのでしょう。どうか許してください。と心からそう思いました。そして、その時、もう一度信仰告白がしたい!、と思ったのです。もう一度きちんと、神様あなたの前にひざまずき、頭(こうべ)をたれて、手を合わせて、きちんとあなたの方を向き、あなたにアンテナを合わせて、ピントを合わせて、そして神様あなたの前できちんと誓いたいと、信仰告白がしたいと。いいえ、したいではなく、信仰告白させてください、という思いが与えられました。
その時、私にははっきりと見えたんです。神様がおおーきな手を広げて私を待っていてくれたのが。そして、
「やっと気づいたのか、あなたのほしいものはもう既にあなたに与えてあるんだよ、だからそれを受け取れば良かったんだよ、やっと分かったね。ただ受け取りなさい、何も言わずに受け取りなさい、あなたのために用意したものですよ。あなたはそのままでいいんです。そのままのあなたでいいんです。背伸びをすることなくただ、子供のように私のもとに駆け寄ってきなさい。私があなたを受け止めます。私はあなたを待っていたよ、ずーと長い間、早く私のもとに帰ってきなさい、あなたを待っていたよ、早くこの大きな翼のもとにきてあなたの羽を休めなさい。試練の中、誘惑の中、サタンの中をくぐり抜け、よく私までたどりついたね。私があなたを守っていたんだよ、よく私に応えてくれたものだ、もう心配ないよ」
とそういっているのが聞こえたのです。もちろん視覚で見えたわけでも聴覚で聴こえたわけでもありません。でも、私にははっきりと見えたんです。そしてはっきりと聴こえたんです。それらの映像、イメージが。今でもハッキリとおぼえています。
神様は待っていてくれたんだ、こんな傲慢で自分勝手でどうしようもない私を、あなたにとっては砂粒のひとつにもならないようなこんな小さき者の私をもあなたは忘れることなく、ずっと見守り続け、そして待っていて下さったんですね。ましてや与えられているものを与えられていないと言い張り、さらに違う確信をよこせとばかりに駄々をこねていたどうしようもないわがまま娘をあなたは見限ることなく、それどころか大きな御手を広げて待っていて下さった。そして受け止めてくださった。そして願っていた通りに私にあなたへのはっきりとした確信を与えて下さった。
誰よりも劇的にドラマチックに。こんなこんな小さい小さい者の願いをも忘れることなく、
あなたは叶えて下さった。本当に私を見ていてくださったんだ、と、そう思ったら、嬉しいーという思いあふれてきて、神様ありがとうございます、ありがとうございますという言い尽くせないような感謝の気持ちと喜びとが心の奥底から泉のように湧き上がってきて涙があふれてきました。そしてまた、神様今まで長い間待たせてごめんなさい。そして今までの私のとんちんかんな思いや、的外れの考え方、行動、数々の失礼なだった事をどうぞ許してください、と思いました。
メッセージの後もしばらくは感動と喜びとで止めようとしても涙があふれてきました。何という事でしょう!?こんなことが起こり得るなんて思ってもみませんでした。まさかまさか、本当にこのなんの期待もしていなかったヘルモン山荘のキャンプで、半分あきらめの境地にまで足を踏み入れかけていた思いがあっただけに、まさかです。本当に夢のようでした。本当にひとつの期待もなかっただけに、驚きと感動と感激と神様の御業に言葉では言い表せない思いに胸がいっぱいでした。本当に胸がいっぱいで苦しかったくらいです。でもこの苦しさは甘い苦しさでした。今までのようなわけのわからない窮屈な苦い重苦しい苦しさではなく、むせ返るほどのあふれ返るほどの喜びに胸がいっぱいだったという気持ちでした。よく、救われた方がその思いを与えられると嬉しくて嬉しくて皆んなに言い回りたくなるというお話を聞きますが、本当にその気持ちがよく分かりました。
こうして私は2005年8月17日、ハッキリとした信仰告白をすることが出来ました。この時はイエスキリストの十字架に対してはまだ感情も含めて十分に理解してはいませんでしたが、罪ゆえにイエス様が「私のために十字架上で死んでくださったんだ」ということがだんだんとわかってきました。この日を境に、私は自分がクリスチャンであることが誇らしくて誇らしくて、本当に世界中の人々ひとりひとりに自分はクリスチャンなんだ、という事を言って回りたいような気分でした。よくそのような事を証しの本で読みますが、その思いが自分も経験者として本当によくわかります。
(11ページへ続く)
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