関谷都さん(OL)

いつ、どのようにわたしはイエスを自分の救い主として受け入れたのか?

そしてその日さっそく帰ってから導いて下さった通りお祈りをしました。そして、書いて頂いた紙を少し見ながらではありましたが、「神様、これから信仰告白をします」と言って神様に語りかけながら告白をし、またいつものお祈りもあわせてしました。長いこと 祈っていたように思います。・・・・・アーメン。祈り終わりましたが、いつものお祈りと なんら変わりはなく、気分的にも何ら変化はありませんでした。うーん。こんな物なのかなー、と少々がっかりしました。確かにその場で何かがすぐに起こるとかいう事ではないのかもれませんが、何だか腑に落ちない気分でした。でもK氏は、もしこの事が言えたならあなたは救われています、と言っていたけど、本当に救われているのかな?これが救われているって事なの?確かに口に出してお祈りしたけれど、言える、という意味では言葉を発することが出来る人なら誰だって出来る事です。と、今度は自分が本当に心から言っていたのかどうかの自信がなくなって来ました。そしてその事を周りのクリスチャンの方々にお話したら、皆んなにおめでとう、おめでとうと言われました。私はその度にそう言って下さる人に、やめて下さいやめて下さい、だって私全然救われてなんていないし、こんなの違います。って言いました。だってあんなただ部屋でいつものお祈りと同じように言っただけの、他に誰も証人のいない、何一つ感動のない、漠然とした、あんなお試しのなんちゃって信仰告白が私の信仰告白だなんて思いたくない、そんなの認めたくありませんでした。全然納得もいきませんでした。でも皆さんは、それは自分で言ったと思うから違うって思うのであって、主が言わせて下さったんだよ、だからもう救われているし、こんなもんなんだって。これ以上待っても何も起こらないんだから、皆んなそんなもんだよ、と散々言われました。私の中では何の変化もなかっただけにまたまたショックでした。もう、K氏のうそつき、適当な事を言って、主は生きておられる方で、必ず何らかの反応をして下さるって言っていたのに。でも何も起こらないじゃないですか。神様本当に私の話聴いていてくれていたのでしょうかって。なんだか半分だまされたような気分でした。自分の変化のなさにがっかりもしましたけれども、私はそれでもなお神様に期待したかったです。だって私は神様に何度もお願いしました。私にきちんとした確信を下さい、きちんとその「時」を備えて下さいって。何となく、でなく、ただ自分が納得する、というのでもない、神様あなたが私にその事が分かるように示してください、と。周りの人々にはもう救われている、これ以上あなたが望むようなドラマチックなことなんて何も起こらない、皆んなそんなものだ、と言われた時、反対に私は何か確信を持ちました。いいえ、主はそんな方ではない、必ず私にハッキリとわかる確信を下さると、なぜだかその確信を強く感じたのを覚えています。私は「いいえ神様はそんなお方ではない、必ず私に私の求める確信を下さる!」という確信を持ちました。

そしてその年2005年8月、私は菅平のヘルモン山荘という所にキャンプ行くことになりました。メッセンジャーはハワイで初めてメッセージを聞いたT氏でした。一日目のメッセージの後、先生は私にトクトクと説明して下さいました。まず聖書における事実を見て下さいと。そしてその次に信仰がありそれを認め受け入れその通り、とアーメンと言える事、そしてとの次に初めて実感や感情がやってくるという事。関谷さんの場合はそれが全部反対ですと。まず自分の感情を見てはいけない、そしてその毎日どころか、1分1秒ごとに変わる可能性のある自分の感情を見てしまったら自信がなくなるのは当たり前です。また他の人の信仰も見てはいけないと。他のりっぱなクリスチャンを見るとああ、私はあんなにりっぱじゃない、あんな立派な信仰はない、あの人に比べたら劣っている、まだまだだと、そう思い込み自分の信仰がとてつもなく薄っぺらなものに感じてきてしまうから、と。まず事実を見て下さい。神様が私達罪人を救うためにご自分のひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださった事、イエス様がその私達の罪の贖いをして下さった事、そして死後3日目に復活しよみがえって下さったこと、その事実を受け入れただ、「ありがとうございます。いただきます。」といって受け取ればいいんですと。実感や感情はその後でついて来る物です。実感や感情がないからといって救われていないという事ではないのです。と仰いました。じゃあ、私はその事実を認め既に受け入れています。私は救われているという事なんですか?じゃあ、いつ救われたんでしょうか?と聞いたら「そんなのいつでもいいじゃないですか!今救われているならばそれでいいじゃないですか。」と言ってくださいましたけれども、でもその答えは私にとっては一番納得のいかない体のいい適当な言葉で、何とか私をなだめるために言われた言葉にしか聞こえませんでした。私はT氏になんと言われようと、どう諭されようと、ひとつも納得がいきませんでした。いつ救われたか分からないなんて!そんなの嫌です。それを探し求めているのに、それがいつでもいいなんて、いい加減すぎます。じゃあ、私は今まで何のために探して苦しんできたというのでしょうか?今ここでそれを受け入れて認めてしまったら、私の今までの思いはどこへいってしまうのでしょう?それはいくら私の信頼するT氏の言葉でも受け入れるわけにはいきませんでした。だってそうではないですか?確かにT氏の仰る事は正しいです。救われたのがいつだったとしても「今」が救われていればいいのかもしれません。でも、それが正しかったとしても、一般的にはそうだったとしても、他の人にはそれが当てはまったとしても、私以外の全ての人がその言葉通り素直に受け取れたとしても、私にはその公式は当てはまりませんでした。決して納得のいくものではありませんでした。頑固でかたくなでどうしようもないやつだとお思いになるかもしれません。でも、その確信を探しているのに、探し続けてきたのに、ここで引き下がれない、そんな説明納得出来ない、こんな気持ちのまま主と向き合う事なんて出来ない!!という思いでした。(8ページへ続く)

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