関谷都さん(OL)
いつ、どのようにわたしはイエスを自分の救い主として受け入れたのか?
それから毎日のようにその聖書を下さったプリスクールの先生や周りのクリスチャンの先生方、とにかくクリスチャンと聞けばその方々を質問攻めにしていきました。ですが、誰も私の知りたい事や疑問に思っている事、その真髄を答えて下さる方はいませんでした。もちろん言葉の壁もあったのかと思います。私の英語は未熟だったため、自分の聞きたい事が時には上手く伝わらない時もありましたし、また反対に相手が何を言おうとしているのかが上手くつかめない時がありました。今考えれば、母国語で説明されても簡単に理解できないこの霊の世界の事を、英語で理解しようとするのですから、それはお互いにしんどかったと思います。
とにかく色々なところで機会さえあれば私は自分の答えがほしいと求めていきました。でも、一方で教会に行く気にはなれず、その世界には決して入りたくないと拒みながらも、しかしその時私の中にはもう既にイエス様の種が蒔かれていたのでしょう、一方ではその芽を出したくてたまらなくて、既にその魅力に取り付かれ、その本当の核の部分を知りたくて仕方がないという思いに突き動かされていたのです。まるで自分の中で白と黒の二つの真反対の思い同士が、時には白が黒を押さえ込み優勢で、また時には黒が突然頭を出し白を飲み込み黒く染めてしまおうという勢いで、取っ組み合いの喧嘩をしているようでした。しかし残念ながら、私の質問に明確に答えてくれる人は誰もいませんでした。誰に聞いても、誰に尋ねても私にとってはなんだか的外れな答えばかりが返って来て、私の思いは満足せず、いつも物足りない思いをくすぶらせていたのです。そんな事が続いていくうちに、私はどこかであきらめるようになっていっていました。どうせ私の質問に答えてくれる人は居ないんだ、とか、聖書は元々私には合わない書物なんだ、とか・・・。
そんな時学校のお子さんのあるお母さんが、
「今度日本の大阪からすごい面白い伝道者が来るンだけど、聴きに行ってみない?」と声をかけて下さいました。「この方はは聖書のお話をすごい面白く語ってくれるし、全然堅苦しくないから、きっと聴きやすいと思うよ」と教えて下さってぜひ一緒に行きましょうと誘われました。「あ、はい・・・ありがとうございます」と私はうやむやに返事をしました。私がそこで想像したのは、どこかマンションの一室みたいな所に連れて行かれて、うさん臭い大阪の人が来て、私の苦手な大阪弁で大して面白くもない冗談を言いながら偉そうに話すんだろうなー、と勝手に思い込みました。そして、まぁそのどんな人かはどうでもいいとして、そこに詰め込まれたらきっとまた神様神様って言われるんだろうなー、ああ、嫌だなあ、行きたくないなぁ、と思いました。今までも何人もの人に自分の質問をぶつけてきたけれど、誰一人私の疑問に答えられなかったじゃない!だから私の質問に答えられる人なんてきっといないんだ。今度だってそうに決まっている。どんなにすばらしい面白可笑しくしゃべる方かしらないけど、この人だってきっと私の納得のいく事なんて答えられるわけなんてない。きっとこのキリスト教自体私に合わないものなんだ、私には理解できない世界のものなんだ、だからまた嫌な思いしたら聴くだけ損だし時間のムダムダ。と私の心はそこまで頑なになってしまっていました。
それからはどうやって断ろうかいかにして断るか、しか考えていませんでした。にかく行きたくありませんでした。しかしながら、結局私は断りきる事が出来なかったのです。後から聞いたのですが、その誘って下さったお母さんはどうしても私にそのメッセンジャーのメッセージを聞いてほしいというのがあったようでした。もうそれからは次の日が来るのが憂鬱で憂鬱で仕方ありませんでした。行く当日になってもまだ、突然用が出来てとか、もしくは行かれなくなるような出来事が何か起こらないだろうか?と、この期に及んでまだ往生際が悪くじたばたしていました。しかし、そんな事は起こるはずもなく、とうとう私はその方のメッセージを聞くために出かけることになりました。
(4ページへ続く)
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