関谷都さん(OL)

主イエス・キリストを信じ受け入れてから、私の生活はどのように変えられたか?

信仰告白をしてから、まず食事をする前に必ず祈りを捧げるようになりました。また聖書がより一層深く味わい深く読めるようになりました。色々な面で神中心の考え方になっていきました。しかしながらここからが主の私への訓練の始まりでした。信仰告白はしたものの、本当の意味であなたは私に忠実か、従順か、従うことが出来るのかが問われていきました。 まず、信じたらバプテスマとなるのですが、私は色々な問題を抱えていました。まず、バプテスマは自分が信仰をもつきっかけとなったハワイで受けたい、という思いがどうしても強く、それを捨てることがずっと長い間出来ませんでした。なぜ主はハワイから無理やり私を引き離してまでも、この経堂集会に集わせようとなさるのかがわかりませんでした。私はバプテスマは目に見える形での神の家族に加えられるという地域の集会への所属を表す意味もあることなどまったく知りませんでした。 また経堂集会の全てが私は気に入りませんでした。嫌いでした。自分がハワイで通っていた教会とどこもかしこも違うと比べてしまっていたのでした。集会に来ると人が門番のように立っているのも、靴を脱がなければいけないのも、受付で何か渡されるのも、挨拶されるのも、お茶をサーブされるのも、一緒にお昼ご飯を食べるのも、いつまでもまだ求道者だと思われ見張られているようなのも、教会ってもっと自由なところなんじゃないの?と。使っている新共同訳の聖書をこの集会で使っている新改訳にそろえるのも、なぜ私が合わせなければいけないのかと自分中心でした。信仰告白はしたものの、それは序幕に過ぎず、私は主に用いられるだけの器にはひとつもなれていなかったのです。中でも一番嫌だったことは自分の信仰を集会の人々から子ども扱いされることでした。自分ではハワイにいる時から信仰を持っているつもりでいたので、なおさらです。何もわかっていないくせに、たいした信仰ももっていないくせに、自分では一人前の信仰を持っているつもりでいました。そして私に構わないで、とばかりに虚勢を張ってとがってばかりいました。そういう私に対して腫れ物に障るように扱われることもまた嫌でした。色々な人との交わることで傷つけられ、また私も人を傷つけて、私の心はますます頑なになっていきました。 バプテスマを受けることに抵抗はなく、むしろ早く受けたいと思っていました。が、とにかくこの集会でバプテスマを受けたくない。決して受けるものか、私は信仰をもったハワイの地で、青い海と青い空とやわらかい風の吹く広々とした海でバプテスマを受けるんだー、一生のうちに一回しか受けないものだからこそその夢は絶対にに譲れない、と思っていました。また100歩譲ってハワイでないとしても、この経堂集会でだけは絶対に受けたくないというどうしようもない頑なな心から解放されることが出来ませんでした。

そんな私を主はまた別の試練を通して整え始めてくださったのです。私にはつらい事ばかりでした。が、全て主がなしてくださったことには意味があったのです。 ある時は集会に来るのも限界が来て、やはりここは私の居る場所ではない、と一度集会を離れしばらく行くことが出来なくなくなりました。インターネットで調べてはいくつかの教会をジプシーの様に転々と回っていた事もあり、でも、どんなにいいと思う教会へ行っても私の思っているような教会はなく、行く度にやっぱりここも違っていた、あそこも違っていた、とがっかりと落胆する日々でした。どこかでわかっていたのです。どこへ行っても私の理想とする教会なんてない、もし仮にあったとしても、私はそこへは行かないだろう、なぜかというと、主が私を導いて下さったのは経堂集会だとわかっていたからです。それを認めたくなくて、認められなくて、ずっと主に反抗していたのかもしれません。私にはなぜ次から次へと色々な不可解なことが起こるのかわかりませんでした。そうするとどうしても、なぜこの経堂集会へ来ることになってしまったんだろう?と最初の疑問にもどってしまい、思うことは堂々巡りで深い出口のないどこまでも続くらせん状の迷路に入ってしまっているようでした。しかし、そんな時主が思い出させてくださったのがアブラハムの信仰でした。アブラハムはどこへいくのかもわからなかったけれども、ただ主を信じた、と。その信仰を思い起こしたとき、もう一度経堂の集会へ戻ろう、という思いが与えられました。たとえ午後のゴスペルアワーだけでもいい、たまにやっぱりどうしても嫌だ!と行けない時があるかもしれない、それでもいい。主の示してくださっているこの経堂集会へ戻ろうと決心しました。

またある時、とても信頼している兄弟から自分を全否定されるような言葉でひどく傷つけられました。もちろん本人はそんなつもりはなかったでしょうし、私を正しい方向へ導くためでしたが、あまりの受け入れがたい表現の仕方の言葉に深く傷ついてしまい、私の心は立ち上がれないほどにボロボロになりました。ただの人だったらその人を嫌いと思うだけですんだかもしれません。しかし、一番信頼を寄せている人を通してボロクソに自分の人格を否定されるような事を言われなぜそこまで言われなければならないのか、わかりませんでした。毎日の様に泣きました。そのせいで自律神経をおかしくしパニック障害という病気になってしまいました。主よ、なぜこのような試練を私にお与えになるのですか?こんなに精神的にも肉体的にも苦しくて、せめて病気だけでも治してください、と願いました。そしてそれから3年間、傷つけられた人を赦すことが出来ずにいました。 でもその事を通して主が私に伝えたかったことは、「あなたがその人をどれくらい信頼し信用し尊敬していたかは私は知っている、私があなたにその者を遣わしたのだから。でもあなたの主人は誰か?その者か?あなたの主、神は私である、他の誰でもない、私なんだよ」ということでした。それがわかった時、ああ、私は人を見ていた、主ではなく、神ではなく、イエスキリストではなく、人間を見ていた、ある意味の偶像礼拝をしていたということに気付かされました。それらに気づいた時、これらのことが起きた意味を知ることが出来ました。そして本当の意味で神ご自身に目を向けることが出来ました。それに気づかせるため全てのことが私には必要だったのです。 (12ページへ続く)

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