おはようございます、三綿直人です!
先日、ある企業が家族をテーマにした川柳を募集し、その優秀作品を発表していました。少し紹介しましょう。
 『妻の声 昔ときめき 今動悸』
 『居場所なし ルンバにさえも ジャマにされ』
 『家族旅行 予算削減 パパ留守番』
 川柳の素晴らしい所は、切なさや、儚さや、悲しみを笑いに変えて人生を乗り切って行こうとしてるところですね。
 私は笑いって素晴らしいものだと思っています。
 でも同時に笑いでは乗り切れない悲しみも人生に満ちてるんではないでしょうか。

悲しむ者は幸いです。
聖書の言葉に
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
という言葉があります。イエス・キリストの言葉です。すごい言葉だと思います。
 「喜んでいるものは幸いです」が私たちが普通に考える言葉ですが、「悲しむ者は幸いです」とおっしゃってるんです。
 悲しみや、苦しみで一杯の人に、この聖書の言葉をお届けし、慰められる人生の幸いをお伝えしたいと思います。
 今日三つのポイントでお話ししましょう。
『いつくしみしみ深き』の作者
まず第一に、すべての人は悲しみと出会うということです。
 有名な賛美歌に『いつくしみ深き』という賛美歌があります。『アメージング・グレース』と並んで二大賛美歌と呼ばれているものです。
 この曲は実は日本人にもなじみ深いものですね。と言うのは、1910年に出版された文部省の唱歌の中に取り入れられたからです。
 この讃美歌の作者はジョセフ・スクライヴンという人なんですが、彼の人生は悲しみと、痛みに満ちたものでした。
 結婚式を明日に控えた24才のある日、婚約者が溺死します。
 彼女との思い出がたくさんある故郷に住み続けることが出来なくなって、カナダに移住するんです。
 傷心のまま時を過ごします。でも41才の時、もう一度婚約するんですね。
 相手は亡くなった婚約者の年齢と同じ23歳の方だったそうです。でもその方まで婚約期間中に病死するんです。
全ての人は悲しみに出合う
彼は二度も婚約者を失います。その悲しみでいっぱいなのに、周りの人々のジョセフに対する目もおかしくなっていくっていうんですね。
 「彼の人生には何か呪いが付きまとってるんではないか。」
 「彼はクリスチャンだと言っているけど、実は何か悪いことをしてたんではないか。」
 自分が友達だと思っていた人にまでそんなことを言われて、彼は深ーく深ーく傷つきます。
 でも彼はこのような経験を通して詩を書いていくんです。その詩が『いつくしみ深き』という詩なんです。
 「イエス・キリスト以上に私の弱さを理解してくれる方はいない、私の悲しみを理解してくれる方はいない、私の友はいない」というそんな歌です。
 私たちは幸いな家庭を持てない悲しみがあります。でも幸いな家庭を持ったとしてもそれを失う悲しみはもっと大きなものです。
 お金がない悲しみがありますが、お金の故に苦しむ苦しみがあります。
 人生は全ての人が悲しみと苦しみに出会うようになっていると言えるのではないでしょうか。
メンフクロウの仕組み
二番目に、キリストが真の慰め主であるということです。
 私たちの悲しみの本質的なものは全部、命と死の問題に結びついているのではありませんか。
 イエス・キリストは命の設計者です。先日、動物園に行ってメンフクロウの仕組みを教えてもらいました。
 メンフクロウは首が右に270度、左に270度回転するんだそうです。私たち人間は右に90度、左に90度が限界ですね。
 でもメンフクロウは肉食の鳥なんだそうですが、鷲や鷹に比べて狩りが苦手なので、このような視野の広さを持って生き残ってきたんですよって言ってました。
 そして質問が出たんです。
 「何でそんなふうにいっぱい回るんですか。」
 「人間の首の骨は七個ですけど、メンフクロウの首は倍の14個が組み合わさって頭を支えてるんですよ。」
 なんで骨が14個、倍あったら可動域が広いかって分かりますか。
 子どもがブロックで何かを作るとき、細かい物がたくさん組み合わさって出来る物の方が複雑な仕組みで動くんですよね。
 そして、このメンフクロウは雪の中にいるネズミを捉えることが出来る唯一の鳥だっていうんです。
 このフクロウの顔は平たーくなっていてパラボラアンテナのように音を集約する構造になっているそうです。
 左と右の耳の位置は高さが違って、その高さが違う耳の故に獲物との距離を計れると言うんです。
設計者が解決する
また子どもが質問しました。「なんでそうなってるんですか。」
 仕組みを仕組んだ方がいるんですね。私たちはデザインあるところにデザイナーがある、設計図のある所に設計者がいると考えることは当然だと思います。
 私たちの命は細胞が組み合わさって出来てるんです。この組み合わさって出来てるものは、組み合わせた方がいると考えるのが当然ではないでしょうか。
 聖書はこのキリストこそ私たちの命の設計者だと教えてるのです。ですから命の設計者のみが命の問題を解決できるんです。
 死の悲しみに打ちひしがれている人に、死の問題を解決することが出来ると、慰めることが出来ると、おっしゃってるのがイエス・キリストです。
キリストは悲しみも死も経験された
このキリストが真の慰め主であられるその理由のもう一つは、この方は悲しみも死も経験されたからです。
 父親を早くに失う悲しみがあります。経済的貧しさのゆえの悲しみがります。家族から理解されない悲しみがあります。友から裏切られる悲しみがあります。
 でも、これらをイエス・キリストは全部経験されました。この方は悲しみを経験された方です。
 もし私たちの周りに悲しみを知らない人がいたら、その人に慰めてほしいと思いますか。
 同じ悲しみを持っている人に、悲しんでる人は慰めを受けるんではないでしょうか。
 そしてキリストはあなたを慰めたい方です。病人に医者が必要なように、悲しんでる人にキリストが必要だ。喜んでる人のそばに私たちは行きたくなります。
 元気な人の所に私たちは集まります。でもキリストは違います。
 キリストは悲しんでいる人の所に行きたい、弱っている人の所に行きたい、困難を極めている人の所に行きたい、と考えるお方です。
 「悲しんでいる人は幸いです。その人たちは慰められるから。」
 今日、悲しんでるあなたがおられたら、あなたを慰めたいキリストがおられると知ってください。
キリストに慰められる道
三番目にキリストの慰めを受ける人生をぜひ選択してください。これが私のお伝えしたいことです。
 私たちは悲しみに出会った時、自分の努力で解放されていく道か、イエス・キリストに慰められる道かを選ぶことが出来ます。
 先日、私の友人が「その聖書の話をして、いろんな人の人生相談を受けてるのはお前も大変やろ。ええ本紹介したる」って言うんです。
 その本のタイトルは「筋トレ最強」という本です。筋トレすれば全部うまくいくっていうんですね。「悩んでる暇があったら筋トレせー!」そんな本です。
 でも私は思うんです。筋肉なら自分の力で何とかなります。でもその筋肉ですら大きく二つの筋肉があるんです。
 自分の意志で動かすことのできる筋肉と、自分の意志では動かせない筋肉です。
 そして、自分の意志で動かせない筋肉こそ命に直結してる筋肉です。
 心臓を動かしてる筋肉は私たちの努力で動かすことできません。
 私たちは自分の命がいつ終わるか分からないんです。自分の周りの人の死を経験するんです。
 でもその時、人間の努力で解決する道ではなく、命の造り主であり、慰め主であるキリストのもとに来るという人生があります。
 ぜひその人生を選択してください。心からお勧めします。
(マタイ5:4)





























