おはようございます。三綿直人です。
先日、丸の内付近を歩いていますと、あるニュース番組の街頭インタビューを受けました。全国ネットのニュース番組です。
健康ブームの中で、はちみつが注目されてる。はちみつは好きですか、はちみつをどのように食べていますかなど、きかれました。
私は張り切って5分位いろいろお話したんです。
それを聞いていた小学生の次男が最後のところで、「僕、はちみつ好きだよ…」と割り込んできました。
「お、おまえもテレビに出たいか」なんて思ったんですね。
それを聞いた幼稚園の長女も「わたしもはちみつ好き」と笑顔で話して、インタビューは終わりました。
「今日の夕方のニュース番組で出ますので、どうぞご覧ください」。ま、そんな風に言われて、家に帰ったんです。
テレビ取材の結末
そのニュース番組を録画して、どんなふうに映っているのかチェックしました。
そしたら何と、わたしが話した5分位のコメントは全部カット、最後の子供達二人が「はちみつ好き」と言っているところだけが、放映されているではありませんか。
皆さん、テレビって自分たちの都合の良い部分だけ編集して使うんですね。
「なんだテレビなんて、やっぱラジオや」と、思ったんです。
でも私はこのことを通して、ひとつ考えさせられました。それは人生も、自分の都合で編集できない、ということです。
私たちはSNSで自分の都合の良い部分、人に見せても良い部分だけを編集してアップします。
でも人生には、悲しみ、痛み、苦しみがあります。
これらの部分も含めて全部が、私たちの人生ではないでしょうか。
聖書は私たちの人生の喜びはもちろん、苦しみや悲しみも全部丸ごと受け入れて、その中での幸いを経験する道について教えています。
今日は「苦しみの中での幸い」と題して三つのポイントでお話ししましょう。
注文を間違える料理店
まず第一に、「聖書の神は失敗を前提に守る神だ」ということです。
先日「注文を間違える料理店」と言う話を聞きました。六本木に期間限定でオープンしたお店です。
このお店の不思議なところは、注文を取り次ぐウエイター、ウエイトレスが全部、認知症を抱える人たちだということなんです。
予約時間になると、順番にお客様がお店に入って来ます。
テーブルごとに担当の方が付くんですが、席に案内することができません。
自分がお客様なのか、ウエイトレスなのか分からなくなります。
一緒に席に着いてお話しています。「さて、私は何をしにここにいるんだっけ?」と、こんな感じなんですね。
でも、みんなニコニコしています。
注文を忘れ、違う人に届け、とそのお店の中は間違いだらけなんですが、そのテーブルに座っているお客さんたちは、その認知症を患っている方々の家族なんです。
そして自分のお父さんやお母さんが、働いている姿そのものを喜んで、涙ぐんでおられるんですね。
このお店のすごいところは、認知症を抱える人が安心して働ける仕組みがあることです。
この働いている方々の三倍もの方々が、この方々が充分仕事ができるように、危険や困ったことにならないように目を配っています。
注文と違ったメニューが届いても大丈夫なように、事前にお客様達には来店前にヒヤリングをしています。すべて失敗を前提に仕組まれているんです。
そしてそのお店の中に、なんと豊かな温かさがあるんです。私はそれを見て感動しました。
私たちの今の世界は、人の間違いを指摘し、受け入れることができず、責め立てる世界です。
でも失敗を前提にして、人生をマネジメントしてくださる神がおられるなんて、すてきなことだとは思われないでしょうか。私はこの神様を皆さんにご紹介したいんです。
ひび割れた壺の恵み
次に、聖書の神様は、人間の欠けを用いる神様だということです。
「ひび割れた壺の恵み」という話を読みました。こんなお話です。
インドに一人の水汲み人がいました。彼は仕事で二つの大きな壺を使っていました。
長い棒を首にかけ、両端に一つづつ壺を吊り下げています。
一つの壺は、一か所大きくひび割れたところがありました。もう一つの壺は大丈夫です。
両方ともに水をいっぱい汲んでご主人のもとに届けるんですが、ひび割れた方の壺は、家に着くころには水が半分しか残っていないのです。
二年間、この水汲み人は同じことを繰り返しました。
ひび割れた壺の方は、自分が充分でないことを恥じ、半分しか運ぶことができない、といつも惨めに思っていました。
ある日、そのひび割れた壺はご主人に言います。
「ご主人様、私は自分を恥じています。水を半分しか家に届けられません。本当に申し訳ありません。わたしには欠けがあるんです。ひび割れてるんです。水がそこから漏れてしまうのです。あなたが一生懸命運んでおられるのに、わたしのせいで充分な仕事をすることができていません。」
すると水汲み人が笑顔で答えます。「さあ、今日家に帰るとき、一緒に道端を見てみよう」。
その日の帰り道、ひび割れた壺はあたりを見回しました。
「さあ、ご覧なさい。おまえの側にだけ、花が咲いてるだろ。反対側にはないんだよ。それはね、私が、おまえのひび割れを知っていて、それを用いたんだ。おまえが通る側の道に種をまいておいて、毎日ここを通るとき、おまえの壺から水をやってたんだ。もう二年間、私はご主人にその美しい花を摘んで、きれいに飾って差し上げてるんだよ。おまえのひびがなかったら、ご主人の家は花がない家になったんだ。」
聖書の神は、私たちの欠けを修復するだけでなく、欠けを用いて豊かに富ませることのできる神なのです。
私たちはなんとか自分の欠点を改善しようと努力します。でも、私たちの作り主である神は、私たちの欠点をも用いることのできる神です。
どうか、この神をお知りになってほしいと思ってるんです。
愛を示しておられる方
三番目に、聖書の神様は、あなたが失敗したときこそ愛を示してくださる神だ、ということです。
人類の祖先、アダムとエバは神との約束を破り、罪とのろいの世界に入ります。
しかしその時に、神がとられた行動は何だったでしょう。衣を着せてやることでした。
この衣は、聖書の中で、親が特別に愛している子どもに着せる衣です。
失敗したとき、神は人に愛を示してくださったのです。
今日、自分の失敗で苦しんでいる方、自分には欠けがあると悩んでいる方、神はあなたの失敗を前提にあなたを守っておられます。
あなたの欠けを修復するだけでなく、そのまま用いてくださる神です。
そして何よりも、失敗して落ち込んでいる私たちに、愛を示しておられる神です。
どうかこの聖書の神を信じてください。心からお勧めします。
(詩篇138:7)